法 の 不 確 定 性

―法理解のパラダイム転換に向けて―

佐藤 憲一
(京都大学助手)

はじめに

 今日、様々なディシプリンにおいて不確定性(indeterminacy)の問題が論じられている(1)。確定的な意味や規則の存在を自明の前提にしてきた近代的な諸学は軒並み不確定性の問題によってその存立の根底から問い直されてきているのである(2)。各々のディシプリンにおいて不確定性の問題が論じられることになった内的な要因は様々であろう。しかしながら、いずれのディシプリンにおける不確定性の主張も、客観的なるものが自存しイデア的なるものが実在すると考える形而上学的な思考態度に対する包括的で根底的な懐疑を背景にしている。この懐疑の共有が不確定性に対する同時代的な関心をもたらしたのである。

 近代的な諸学に共通する形而上学的な認識論的・存在論的前提からの離脱の試みは、しばしば「解釈的転回」と呼ばれ、また「コミュニケーション論的転回」と呼ばれる(3)。1970年代の批判法学(CLS)(4)の登場とともに開始され、1980年代以降主にアメリカ合衆国において活発化してきた法の不確定性をめぐる議論は、このパラダイム転換を法理論の領域において遂行しようとする試みとして理解することができるだろう。しかしながら、我々はしばしばこうした文脈を見失い、不確定性の問題を法に特有の問題とみなしがちである。そして、1930年代のリーガル・リアリズム運動以来(5)、あるいは我が国においては第二次世界大戦後の法解釈論争以来(6)、法が不確定的であることは陳腐な常識であり、今さら改めて論じるに値する問題ではない、と性急に結論づけてしまいがちなのである。確かに、法が何らかの意味において不確定的であることを知識として否定しないという意味において、我々は法の不確定性を知っているかもしれない。しかし、我々は法の不確定性についてどれだけのことを知っているだろうか。法はなぜ、そしてどのように不確定的であるのか。法の不確定性は我々の法理解にとっていかなる意味を持つのか。他のディシプリンと呼応して新しい視座からこれらの問題を考察することが不要なほど、我々は法の不確定性について知りつくしているのであろうか。

 法の不確定性の問題が解決済みの過去の問題として扱われる背景には、我々の法理解を規定してきたリベラル・リーガリズムが、法が確定的であることをその本質的な前提として成立しているという事情があるように思われる。リベラル・リーガリズムが支配的なパラダイムとしての地位を維持するためには、法の不確定性が周縁的で些末な現象として位置づけられ、リベラル・リーガリズムを脅かさないよう馴化され無害化されることが不可欠なのである(7)。我々は皆リアリストであり法の不確定性は陳腐な常識であるという言説は、かくして、法の不確定性について積極的に探究することを妨げる機能を果たしてきたのである。しかしながら、リベラル・リーガリズムの信憑性が大きく揺らいできている現在、我々は、リベラル・リーガリズムを理論的に批判するために、そしてリベラル・リーガリズムに代わる新たな法理解を獲得するために、法の不確定性の問題について真剣に考察することを迫られている。

 本稿ではこうした観点から、まず第T章において、近代的な法理解のパラダイムであるリベラル・リーガリズムの特徴と今日におけるその動揺について考察する。次に第U章において、様々な形態で論じられる法の不確定性の主張について一般的な検討を行い、最後に第V章において、最も根源的な水準における法の不確定性を含意する規則の不確定性の問題を考察したい。

T リベラル・リーガリズムの法理解

 1 近代的秩序問題とリベラル・リーガリズム

 リベラル・リーガリズムは近代的な社会秩序のモデルであり、法とはいかなるものであるのか、その存在は我々にとっていかなる意味を有するのか、を説明する公式の説明図式である。近代的な社会秩序のモデルとしてのリベラル・リーガリズムは、理念的な近代社会の正確な記述であると同時に、現実の近代社会の近似的記述であり、さらに近代性を本来性ないし正常性として理解する近代主義的な思考様式のもとで、あらゆる社会が合致すべき規範的なモデルとしての性格をも帯びることになる。

 近代主義を特徴づけるのは、近代/前近代というヒエラルヒー的二分法である。近代性ないし前近代性というのは世界の時間的属性ではなく、思考や行動や制度といった世界内の事物の属性である。ある事物が近代的とされるのは、それが精神と物質の二元論、事実と論理の客観性に対する価値の主観性、といった信念群から構成される近代的世界観によって演繹され、正当化され、あるいはそれに基づいて産出される場合であり、その存在が近代的世界観に基づかない事物はその出現の時期を問わず前近代的という属性を与えられる。近代主義は近代的世界観の真理性を自明視し、非近代的な世界観はいかなるものであれ全て虚偽であり迷信であると考える。近代性が近代性として理解されるのは、それが知的劣等性として理解され、ドクサから解放された近代性へと至る前の状態として位置づけられるからなのである。

 社会秩序もまた同じ観点から、迷信によって成立する前近代的な社会秩序と、迷信から解放され理性によって成立する近代的な社会秩序とに二分される。近代的な社会秩序はいかにして可能か、という問いを近代的秩序問題と呼ぶならば、リベラル・リーガリズムは近代的秩序問題の唯一の解として提出されてきたものである。現実に社会秩序が存在する以上、社会秩序はいかにして可能かを問う通常の秩序問題が解を有することは最初から明らかであるが、一定の条件を満たす秩序がいかにして可能かが問われる場合には、何らかの解が実際に与えられてはじめて解が存在することもまた示されることになる。それ故、リベラル・リーガリズムが近代的秩序問題の解として成立するか否かは近代主義にとって極めて重大な意味を持つ。リベラル・リーガリズムが失敗するならば、近代的な社会秩序が可能であるという信憑は根拠を失い、社会秩序を成立させない近代的世界観を信奉することにいかなる意味があるのか、という原理的問題に逢着することになるのである。

 近代的世界観はヨーロッパ中世の目的論的世界観に対するアンチテーゼとして登場したものである。中世的世界観のもとでは、第一に、あらゆる事物が造物主によって付与された目的をその存在理由として内在していると観念され、第二に、内在的目的が事物の価値と用途を決定し、客観的な行為規範をもたらすと観念された(8)。近代的世界観は、第一の観念を迷信として否定する一方で、第二の観念を暗黙の前提として引き継ぐ。その結果、「神が存在しないとなれば全てが許される」という前提のもとで「神の死」が生じたのと同じ帰結が生じる(9)。自己と他者の身体を含むあらゆる事物は物理的に可能な一切の使用に開かれていると観念されることになるのである。これが近代的世界観における真理であり、この真理への覚醒によって近代的自己が定義される。自己の欲する仕方で事物を使用することを「支配」と呼ぶならば、近代的自己にとって世界は自己が支配すべき対象として立ち現れるのである。

 近代的自己は世界の全てを支配しようとする意志として理解されるが、そうした意志が複数存在するとき、ホッブス的な戦争状態は不可避であると観念される。この状態を近代的無秩序と呼ぼう(10)。近代主義にとって、近代性と無秩序性によって特徴づけられる近代的無秩序はあらゆる秩序問題の出発点である。無秩序性からの離脱が近代性を犠牲にして行われた状態が前近代的な社会秩序であり、この離脱が近代性を犠牲にすることなく行われた状態が近代的な社会秩序であるとみなされる。無秩序性からの離脱は人々が支配欲求を抑制することによって可能になると観念されるから、この抑制が近代的世界観によって基礎づけられない、すなわち非合理的であるのが前近代的な社会秩序であり、近代的世界観によって基礎づけられる、すなわち合理的であるのが近代的な社会秩序であるとされるのである。

 支配欲求の合理的抑制によって成立する近代的な社会秩序のモデルとして構想されたリベラル・リーガリズムは次のような特徴を有する。

 第一に、社会秩序は人々が非人格的な法に服従することによって可能になる。〈法の支配〉と呼ばれるこの秩序のあり方は、人々が他者の意志に服従することによって可能になる〈人の支配〉と対置される。他者の意志への服従は支配欲求の非合理的抑制であるから、〈人の支配〉は近代的な社会秩序たりえないと考えられるのである。

 第二に、社会秩序は人々が法に服従することのみによって成立する(法の十分性)。これは第一の特徴のコロラリーであり、支配欲求の衝突はいかなるものであれ法によって十分解決可能であると考えられるのである。

 第三に、社会秩序は人々が法を自覚的に遵守することによって成立する(順法の自覚性)。法を意識することなく行為した結果が法に合致する人々は、自己の支配欲求を非合理的に抑制する前近代的な自己であるとみなされる。欲望は最初から法の許容する範囲内にあるのではなく、その範囲を超える欲望を理性によって抑制することが順法であると考えられるのである(11)

 第四に、人々は法が許容する限界まで自己の支配欲求を実現しようとする。これは第三の特徴のコロラリーである。法によって認められた権利主張を行わないのは、自己の支配欲求の非合理的抑制であるとされるのである。

 第五に、人々は法を知っている(法の衆知性)。これは以上の諸特徴が可能になるための前提であり、リベラル・リーガリズムの秩序モデルにとって必須の条件である。この条件が満たされるために、法が一定の存在性格を有すること、および人々が一定の知的能力を有することが要求される。近代法はあらかじめ公布された法テクストの意味内容として存在し、近代的自己は法テクストの意味内容を歪めることなく取り出すことができると考えられるのである。

 第六に、法の内容は合理的である(法の合理性)。法への服従が支配欲求の非合理的抑制から区別されるためには、法が合理的でなければならないのである。この条件を満たす法をリベラル法と呼ぶことにしよう。支配欲求の抑制が合理的であるのは、その抑制によって自己の支配欲求の全体としての充足度が最大化されると期待される場合であり、あらゆる自己についてこの条件が満たされる法のみがリベラル法たりうる。伝統的なリベラル・リーガリズムは、各々の自己が他者の支配欲求から保護された固有の支配領域を有するように世界を分割する境界線としてリベラル法を理解してきた。他者による侵害を排除することによって、自己の支配欲求の充足の最大化が可能になると考えられたのである。

 最後に、社会秩序は人々が自覚的のみならず自発的に法を遵守することによって成立する(順法の自発性)。この自発性は法の合理性によって可能になると観念される。合理性を行為の動機とし欲求の原因とする近代的自己は、そうすることが合理的であるが故に世界の支配を欲するだけでなく、同様に合理的であるが故に法への服従を欲するとみなされるのである。支配欲求を解放するだけで自発的に法に従おうとしない自己は、迷信に囚われた自己と比べれば近代的であるが、法に従う自己と比べれば前近代的だとされるのである。

 こうした特徴を有するリベラル・リーガリズムの秩序モデルにおいて、裁判は奇妙な位置づけを与えられる。一方で、紛争の合理的解決として理解される裁判は近代的な社会秩序の核心に位置づけられ、裁判がどれだけ利用されているかによって社会の近代性の程度が評価される(12)。裁判の利用数は、第一に、社会において紛争がどれだけ発生するかによって、そして第二に、紛争の解決手段として裁判がどれだけ選択されるかによって決定されるが、この二つの変数はいずれも、非合理的に抑制されてきた支配欲求が解放され、むしろ合理的に抑制されるようになるにつれ、すなわち近代化の進展とともに増大すると理解されるのである。

 しかし他方で、裁判という現象は近代的な社会秩序の生理ではなく病理として位置づけられざるをえない側面を有する。というのも、裁判は何が法であるかをめぐる争いを解決する場であり、法に従わない人々にネガティヴなサンクションを行使するための手続であると考えられるが、法の近代性を所与とすれば、万人が真に近代的な自己である限り、すなわち、万人が法を正確に理解し、常に強制されることなく法を順守する限り、裁判は不要であるはずだからである。裁判の必要性は、十分に近代的でない自己が残存することにあり、裁判の可能性もまた、そうした自己と、真に近代的な自己の典型として理解される裁判官(および法律家一般)との間に近代性の落差が存在することにあるのである。

 リベラル・リーガリズムは本来この落差の解消された社会秩序のモデルであるから、リベラル・リーガリズムにコミットすることはこの落差の解消を欲することを意味するはずである。しかしながら、実際にリベラル・リーガリズムに強くコミットしているのはその基本的な存在意義が裁判の運営にあると理解される法律家達であり、彼らの存在はまさにこの落差の存在によって可能になっているが故に、現実に主張されるリベラル・リーガリズムはこの落差の解消と残存を同時に欲する奇妙なものになってしまう。もちろん、落差の残存に対する欲求は欲求としての性格を隠蔽され、落差の解消が不可能であることを当然視するという形で表明される。裁判外においても、また法律家の関与の不在においても、一般の人々が法に従って自律的に紛争を解決することが望ましいというメッセージが送られる一方で、法律家が順法精神と法的知識の両方を兼ね備えているのに対して、一般の人々はせいぜいその一方しか備えることができず、結局のところ法律家の指導が不可欠であるというメッセージもまた送られるのである(13)

 2 法の不透明化

 今日の法化社会(14)において、法的なものとして意識される事象が増大の一途を辿っているのとは裏腹に、法はますますよくわからないものとなってきている。この事態を法の不透明化と呼ぼう。法の不透明化は、表層においては法的知識の不足ないし欠如として現れるが、より重要なのは、法とはいかなるものであり、その存在は我々にとっていかなる意味を持つのか、という問いに答えることが極めて困難になってきているという現実である。この深層における法の不透明化は、公式の説明図式であるリベラル・リーガリズムが、今日でも依然として支配的イデオロギーとしての地位を維持している一方で、我々の前理論的な生活感覚のレヴェルにおいて、そして現実の法実践の遂行的な次元において、その信憑性と現実性を徐々に喪失してきたことに起因する。

 ここでリベラル・リーガリズムの説得力を失わせる現象をいくつか挙げてみよう。まず第一に、今述べた表層における法の不透明化が挙げられる。リベラル・リーガリズムは人々が従うべき法を知っていることを当然の前提とするが、一般の人々はほとんど法を知らず、そして、この無知にも関わらず社会秩序は現に存在しているのである。

 第二に、非リベラル法の存在が挙げられる。他者による妨害の排除が可能にするのは支配欲求の充足の容易化にすぎず、支配欲求が現実にどれだけ充足されるかは環境や能力や運によって左右されるという認識が、これらの効果を修正する一定の規制法や再分配法をリベラル法に包摂することを可能にした(15)にもかかわらず、依然としてリベラル法に包摂されえない法が多数存在するのである。

 第三に、リベラル・リーガリズムの根底にある近代的世界観を、とりわけ、非主観的な価値の不在という前提を人々が遂行的に否定しているという事実を挙げることができる。好き嫌いとも適法違法とも異なる善悪ないし正不正について人々は現実にコミュニケートしている。倫理学における情緒主義の衰退と応用倫理学の発展は、この事実を学問的なレヴェルで裏付けるものであるし、法適用においても具体的妥当性ないし実質的正当性について語られているのである(16)

 最後に、リベラル・リーガリズムが思想的に準備する社会全域の市場化が今日現実のものになりつつあることを挙げることができるだろう。嬰児や臓器を含むあらゆる事物が商品化され、親の育児義務のような非自発的義務の存在が否定され、利己的な権利主張が増大することに対して、人々は生活感覚的な反発を感じているのである(17)

 以上の現象は結局のところ、リベラル・リーガリズムが描く自己、社会、あるいは法の姿と、我々が現実に経験するそれらの姿との間の齟齬に他ならない。リベラル・リーガリズムは単なる記述モデルではなく同時に規範的なモデルでもあるから、モデルと現実との間に齟齬が存在するからといって直ちにリベラル・リーガリズムの説得力が動揺するわけではない。法の不透明化をもたらすのは齟齬の存在それ自体ではなく、齟齬を解消する見通しの欠如なのである。今日多くの人々は、リベラル・リーガリズムが描くモデルと経験される現実との間に存在する様々な齟齬を、何が何でも現実をモデルに合わせるという方向で解消しようとする意欲をもはや持つことができないでいる。しかし他方で、近代的世界観に根ざしたリベラル・リーガリズムの説得力は未だ完全に失われたわけではなく、モデルと現実との間の矛盾をモデルを放棄することによって解消するという方向に対して人々は躊躇を感じてしまうのである。こうした見通しのつかない状況において、法の存在意義は極めて不透明なものにならざるをえず、法は疎遠で不気味な対象として現れることになる。法の作動は可能的ないし現実的な暴力の行使を伴うものであるから(18)、法の不透明化は法が随伴する暴力の不条理化をもたらし、正統性の危機を招くことになるのである。

 それ故、我々はリベラル・リーガリズムに対するアンビヴァレントな態度をいつまでもとり続けているわけにはいかない。リベラル・リーガリズムの妥当性を真剣に再検討することが必要なのである。しかしながら、この課題を遂行することは極めて困難である。リベラル・リーガリズムは、社会科学一般における近代主義的な思考様式に支えられ、また法学の規範的な思考様式と結びつくことによって、それが現実の記述としてどれだけ不適切であろうとも、理念的な近代社会の記述として適切である限り、モデルとしての妥当性を失わないようにできている。そして、リベラル・リーガリズムがその社会の正確な記述モデルとなるような社会こそが理念的な近代社会であるとされる以上、リベラル・リーガリズムの妥当性は原理的に反証不可能であるように思われるのである。

 もちろん我々は、リベラル・リーガリズムが前提するような人間は原理的に、すなわち理念的な近代社会においても存在しえないが故に、リベラル・リーガリズムは現実の記述モデルとしてのみならず、あるべき社会秩序の規範的なモデルとしても失敗すると主張することができるだろう(19)。しかしながら、リベラル・リーガリズムはこうした批判を擬制によって回避しようとする。モデルと現実との間の齟齬が原理的に解消しえないものであることを承認しつつ、あたかも齟齬が存在しないかのごとく振舞うことが規範的に正しいという主張を展開するのである。

 こうなると、残るのはリベラル・リーガリズムを信奉するか否かの決断のみであると思われるかもしれない。しかしながら、リベラル・リーガリズムに対する理論的批判は決して不可能ではない。法の不確定性をめぐる今日の議論は、この困難な課題に対する理論的挑戦の試みとして理解することができる。リベラル・リーガリズムはモデル構築における自明の前提として法が確定的であることに決定的に依存しているから、法が確定的であるか否かを問題にすることによって、リベラル・リーガリズムの妥当性を根底から問い直すことが可能なのである(20)

U 法が不確定的であるとはどういうことか

 1 法の不確定性

 法が不確定的であるとはいかなることを意味しているのであろうか。無用な混乱を避けるためにこの点をはっきりさせておくことが必要である。法が不確定的であるという主張を理解するための早道は、その攻撃対象であるところの法の確定性を理解することである。法が確定的であるとは、可能な行為の全体からなる集合が適法な(法的に妥当な)行為の集合と、違法な(法的に妥当でない)行為の集合とに直和的に分割されるということである。法が確定的であるならば、あらゆる行為は法テクストの意味内容として理解される法によって、適法/違法のいずれかの値をあらかじめ割り当てられてこの世界に出現すると考えられるのである(21)

 法の不確定性を主張する論者を不確定性論者と呼ぼう。不確定性論者は決して一枚岩ではないが、こうした観念を否定し、あらゆる行為の妥当性をあらかじめ決定するものとして法を理解することを拒否する点で一致している。行為の妥当性を先行決定するものは規則と呼ばれるから、法が不確定的であるという主張は、個々の法規範はさておき少なくとも全体としての法(法体系)は規則として機能しない、という主張として理解することができる。なお、その意味内容が法であるところの法テクストとみなされるのは通常、憲法典、議会制定法、判例であるが、場合によっては遺言や契約なども含まれ、さらに支配的な学説や解釈方法論が含まれることもある。およそ何らかの意味内容を有する事物は全て、その意味内容によって行為の法的妥当性が決定されると観念される限り法テクストたりうるのである。

 法の不確定性の主張は通常、特定の事案においていかなる判決が正しく、いかなる判決が誤っているかが法によって決定されないという主張として理解されることが多い。しかしながら、法の不確定性の主張は本来、特定の状況においていかなる行為が適法であり、いかなる行為が違法であるかを法が決定しないという、より一般的な主張として理解されなければならない。判決という裁判官の言語行為に関する問題は、行為一般に関する問題の特殊事例なのである。もちろん、国家権力の正統性の問題と直結するが故に、強制的な執行可能性を有する判決の問題が議論の中心になるのは当然のことであろう。しかしながら、法の不確定性がそもそも判決のみに関わる問題ではないことを忘れてはならない。リベラル・リーガリズムは、あらゆる自己が法に従うことによって成立する社会秩序のモデルである。法の不確定性を主張する者も否定する者も裁判官の下す判決のみに焦点を合わせることにほとんど疑問を感じないという現状は、法とはいかなるものであるかを説明する公式の説明図式としてのリベラル・リーガリズムが既に本質的なところで骨抜きにされていることを示唆するように思われる。

 法が不確定的であるという主張は、法理論家だけでなく多くの実務家や法学生によって支持されてきた(22)。彼らの全てが内在的な理論的検討の結果としてこの主張を支持するようになったというわけではないだろう。彼らの支持の背景には、法の不確定性を示唆する法実践上の事実があるように思われる。

 第一に、裁判官達の判断がしばしば分かれるという事実がある。我が国の最高裁判所も同様であるが、アメリカ合衆国の連邦最高裁判所の法廷意見は多数決で決められる。法が確定的であるならば、全員一致の判断がなされるはずであって、多数決が入り込む余地などないはずである。裁判官は法を故意に無視しているのであろうか。それとも、法を正しく認識できないのであろうか。裁判官の誠実性を信頼する限り、法が確定的であるという信念を維持するためには後者でなければならない。しかしながら、司法の頂点に立つ連邦最高裁判所の裁判官ですら認識できないのであれば、いったい誰が法を認識できるのであろう。多数決は制度として確立しているのである。こうして、誠実かつ有能であると思われる裁判官達の判断の不一致という現実に直面したとき、初発の前提たる法の確定性がそもそも誤りであったという主張はもっともらしく思われる。法の不確定性はこの現実を整合的に説明することができるのである(23)

 第二に、原告と被告の両方に弁護士がつくという事実がある。いかなる事案においても、原告の弁護士は原告勝訴の判決を下すことを法が要求していると論じ、被告の弁護士は原告敗訴の判決を下すことを法が要求していると論じる。結果としてどちらかの主張は退けられるわけだが、事案が両方の仕方で論じられていることは事実である。このことは、弁護を引き受ける弁護士達が両方の仕方で論じることが可能であると感じていることを意味する。ヤブロンが言うように、多くの弁護士は「クライアントが主張することを望む事実上あらゆる立場を正当化するために用いることができる武器の宝庫」(24)として教義学的な法的素材に接している。法が確定的であるならば単一の立場しか正当化しえないはずであるから、あらゆる立場が正当化可能であると弁護士が、そして法学生や一般の人々が感じているということは、彼らが法の不確定性を感じているということなのである。

 2 不確定性と予測不可能性

 法が不確定的であるという主張は批判者達によってしばしば誤解されてきた。最も頻繁になされる誤解は、不確定性と予測不可能性を混同するものである(25)。批判者達はこの誤解に基づき、判決が予測可能であることを示すことによって、少なくともその判決が対象とする事案に関して法が確定的であることを証明しようとする。しかしながら、ミロンが言うように、これは明らかに「奇妙な努力」(26)である。問題となっているのは、法的意思決定者の行為を法が規範的に決定するか否かであって、我々が法的意思決定者の行為を予測しうるか否かではない。不確定性論者も「我々が時々驚くべき正確さで、法のルールが特定の事案にどのように適用されるかを予測できる」(27)ことを認めているのである。仮に我々の予測が百発百中であったとしても、法が確定的であるとは限らない。不確定性論者を論駁するためには、司法行動の予測可能性を指摘するだけでは足りず、その予測可能性が法の確定性に起因することを示さなければならない。伝統的な法理論においてはほとんど意識されてこなかったが、予測可能性と確定性は次元を異にするのである。

 批判者達は一般に架空のイージーケースを提示することによって判決の予測可能性を示そうとする(28)。しかしながら、こうした試みは根本的な欠陥を孕んでいる。予測可能性という言葉は通常、単に何らかの予測を行うことではなく、正しい予測(的中する予測)を行うことが可能であることを意味している。しかし、予測が予測である時点においてその予測の正誤について語ることは不可能であり、予測の当否が判明しもはや予測として機能することをやめた時点において初めて、当該予測の正誤を回顧的に評価することができるのである。それ故、現在形でなされる予測の正誤についての言明は、当該予測の当否についてのメタ予測であり、結局のところ、現時点における確信の表明に他ならない。仮に予測不可能性と不確定性を混同することに問題がなかったとしても、決して予測の正誤が判明することのない架空の事案における判決が予測可能であると主張することによって、不確定性論者を論駁することはできないのである(29)

 不確定性論者が予測不可能性と不確定性を明示的に区別しているにも関わらず、両者を混同する誤解が絶えない背景には、次のような三段論法があるように思われる。すなわち、不確定性論者の主張は法が不確定的であるが故に裁判の正統性が掘り崩されるというものであるが(大前提)、裁判の正統性の条件は判決の予測可能性であるから(小前提)、不確定性論者のいう法の不確定性とは判決の予測不可能性のことに違いない(結論)、という三段論法である。二つの前提から結論を導く推論それ自体に問題はないから、批判者達の誤解を解消するためには、少なくとも一方の前提が誤りであることを示す必要がある。

 実際のところ、二つの前提はいずれも偽である。まず大前提についてであるが、そもそも不確定性論者の主要な関心は裁判論ではなく秩序論にある。あらゆる自己が法のみに服従する社会秩序のモデルであるリベラル・リーガリズムのもとで、自己に対する支配は、それが自己の支配であるか法の支配である場合にのみ正統性を有すると観念されるが、法の支配を可能にする必須の条件である法の確定性(30)の欠如の故に、リベラル・リーガリズムは社会秩序のモデルとして失敗すると不確定性論者は論じているのである。裁判論の文脈においても、不確定性論者は、裁判官の下す判決に基づいて発動する国家権力の正統性の根拠を、裁判官の意志によって汚染されない純粋な法の支配であることに求めるリベラル・リーガリズムの前提そのものの妥当性を問題にしているのであり、この前提を疑わないまま、法の支配が不可能であるが故に裁判は正統性を失うと論じているのではないのである。

 次に小前提についてであるが、リベラル・リーガリズムが裁判を始めとする公権力の行使の正統性の根拠として要求するのは官吏の行動の予測可能性であるという認識は誤っている。単なる予測可能性が要求されているのであれば、裁判官が個人的な選好に基づいて判決を下す場合であっても、彼の下す判決を行動科学的な方法を用いて予測できるならば問題がないということになろう。リベラル・リーガリズムが要求するのは法の支配であり、官吏が法に服従することなのである。官吏の行動の予測可能性は、法が確定的であるが故に、個々の状況において法が官吏に何を要求するかをあらかじめ知りうることに起因する(31)。そして、官吏の行動が非人格的な法の実現である限りにおいて、官吏の行動を現実に予測しうるか否かは二次的な問題になる。リベラル・リーガリズムにとって、重要なのは官吏の行動の法的説明可能性であり(32)、法に従っているのだと説明できるためには予測可能性とは異なる法の確定性が必要なのである。




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