(1) 数学基礎論においては算術の規則の不確定性が、科学基礎論においては科学法則の不確定性が、言語理論においては言語的意味の不確定性が、文学理論においてはテクストの意味の不確定性が、社会理論においては社会規範の不確定性と行為の意味の不確定性が、そして法理論においては法の不確定性が論じられている。名部圭一「〈コミュニケーション過程〉と意味の不確定性」社会学評論44巻2号(1993年)、DAVID BLOOR, WITTGENSTEIN: A SOCIAL THEORY OF KNOWLEDGE (1983); JOHN HERITAGE, GARFINKEL AND ETHNOMETHODOLOGY ch. 5 (1984) などを参照。人類学にも影響を与えたクワインの翻訳の不確定性の議論も忘れるわけにはいかない。See W.V.O. QUINE, WORD AND OBJECT, especially ch.2. (1960).

(2) 規則の不確定性とは規則が「決定しない」ということであるが、意味の不確定性とは意味が「決定されない」ということである。意味は本来規則によって決定されるはずだと考えるならば、意味の不確定性を論じることはコードとしての意味論的規則の不確定性を論じることと同じことになる。

(3) DAVID R. HILEY ET AL., THE INTERPRETIVE TURN: PHILOSOPHY, SCIENCE, CULTURE (1992); Michael Moore, The Interpretive Turn in Legal Theory: A Turn for the Worse?, 41 STAN. L. REV. 871 (1989); 和田仁孝『法社会学の解体と再生』(弘文堂、1996年)、石井和平「社会学のコミュニケーション論的転回」年報社会学論集4号(1991年)などを参照。

(4) JAMES BOYLE, CRITICAL LEGAL STUDIES (1994); THE POLITICS OF LAW: A PROGRESSIVE CRITIQUE (David Kairys ed., rev. ed. 1990); MARK KELMAN, A GUIDE TO CRITICAL LEGAL STUDIES (1987); ANDREW ALTMAN, CRITICAL LEGAL STUDIES (1990)、松井茂記「批判的法学研究の意義と課題」法律時報58巻9、10号(1986年)などを参照。

(5) See, e.g., WILLIAM W. FISHER ET AL., AMERICAN LEGAL REALISM (1993) などを参照。

(6) 来栖三郎「法律家」『末川博先生還暦記念論集・民事法の諸問題』(有斐閣、1953年)、同「法の解釈と法律家」私法11号(1954年)、川島武宜『科学としての法律学』(弘文堂、1964年)などを参照。

(7) 例えばハートは、「大多数の通常の事例」において法は確定的であると論じる。H.L.A. HART, THE CONCEPT OF LAW 120 (1961). ハートは恐ろしい不確定性のカオスが法実践全体へと広がらないように、核心部と半影部とを厳格に峻別し、不確定性を半影部に閉じこめるのである。この「二分論」の問題点については、高橋秀治「H・L・A・ハートにおける法的概念の分析理論に関する一考察」早稲田法学67巻4号(1992年)、中山竜一「法理論における言語論的転回(一)」法学論叢129巻5号(1991年)57頁以降、Stephen Livingstone, Of the Core and the Penumbra: H.L.A. Hart and American Legal Realism, in THE JURISPRUDENCE OF ORTHODOXY: QUEEN'S UNIVERSITY ESSAYS ON H.L.A. HART 163 (Philip Leith & Peter Ingram eds., 1988) などを参照。

(8) 事物の用途が内在的目的によって客観的に決まるということは、人間による事物の使用がその事物の内在的目的に適っていなければならないという客観的な行為規範が存在するということである。さらに人間もまた世界内の事物であるから、人は自己をその目的に従って使用しなければならないという客観的な義務が存在することになる。目的論的世界観については、さしあたりH・ロンメン(阿南成一訳)『自然法の歴史と理論』(有斐閣、再版1971年)などを参照。

(9) ここにあるのは、バーンスタインが「デカルト的不安」と呼び、「客観主義と相対主義の二者択一」と表現する形而上学的態度である。R・J・バーンスタイン(丸山高司・木岡信夫・品川哲彦、水谷雅彦訳)『科学・解釈学・実践T』(岩波書店、1990年)17頁〜39頁。

(10) これはヘッフェが「一次的自然状態」と呼ぶものである。オトフリート・ヘッフェ(北尾宏之ほか訳)『政治的正義―法と国家に関する批判哲学の基礎づけ―』(法政大学出版局、1994年)10章を参照。

(11) 法の支配は理性の支配の別名に他ならない。See, e.g., Fred Dallmayr, Hermeneutics and the Rule of Law, in DECONSTRUCTION AND THE POSSIBILITY OF JUSTICE 284 (Drucilla Cornell et al. ed., 1992)(西洋政治思想史を貫く「人ではなく法の支配」という教義は「単なる偶然的な政治的バイアスではなく、むしろ西洋文明に特有の諸々の中心的前提とヒエラルヒー的仮定に結びついている。とりわけ、恣意的意志に対する理性の、特殊的事情に対する普遍的原理の、そして究極的には質料に対するイデアの支配と結びついている」と主張).

(12) 川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書、1967年)などを参照。

(13) 六本佳平『民事紛争の法的解決』(岩波書店、1971年)などを参照。

(14) 法化の問題については、馬場健一「法化と自律領域」棚瀬孝雄編『現代法社会学入門』(法律文化社、1994年)、棚瀬孝雄「法化社会と裁判−国際化時代の日本の裁判」ジュリスト九七一号(1991年)、グンター・トイプナー(樫沢秀木訳)「法化―概念、特徴、限界、回避策―」九大法学59号(1990年)などを参照。

(15) See, e.g., JOHN RAWLS, A THEORY OF JUSTICE (1971).

(16) 判決に対して実定法適合性(法的安定性)と実質的正当性(具体的妥当性)の両方を同時に要求するとき、我々はそこにディレンマが存在することを意識するが、このディレンマを二つの要請を同時に満たすことの困難性として理解しがちである。しかしながら、ここに存在するディレンマはより根源的なものである。二つの要請は異なった世界観に立脚しており、その要請としての地位を相互に否定し合う関係にあるのである。判決に実質的正当性を要求することは、実定法適合性とは独立に判断される非主観的な道徳的正しさの存在を認めることである。ところが、実定法適合性の要求の前提にあるのは、近代的世界観に基づく価値の主観性と道徳的正しさの不在なのである。それ故、実定法適合性が必要であるとすれば実質的正当性なるものは存在しないはずであり、実質的正当性が存在するとすれば、実定法適合性は不必要だということになる。それ故、実定法適合性と実質的正当性の両方を要求するとき、我々は自分達がなぜそうした要求を行っているのかを整合的に理解することができないのである。

(17) J・B・エルシュテイン(河合秀和訳)『裁かれる民主主義』(岩波書店、1997年)などを参照。

(18) 法のあり方について考える際に我々はこのことを決して忘れてはならない。Cf. Robert Cover, Violence and the Word, 95 YALE L.J. 1601; LAW'S VIOLENCE (Austin Sarat & Thomas R. Kearns eds., 1995).

(19) See, e.g., MICHAEL J. SANDEL, LIBERALISM AND THE LIMITS OF JUSTICE (1992); SEYLA BENHABIB, SITUATING THE SELF: GENDER, COMMUNITY AND POSTMODERNISM IN CONTEMPORARY ETHICS (1992).

(20) 現実の男や女を敢えてリベラル・リーガリズムのモデルと適合する人格として扱うことが可能であるならば、同様に、現実には不確定的である法を敢えて確定的なものとして扱うこともまた可能であると思われるかもしれない。しかしながら、モデルの欠陥を隠蔽するための手段として法の確定性を偽装することが実践的に可能である一方で、モデルに対する理論的批判を回避するための手段として法の確定性を擬制することは原理的に不可能である。というのも、たとえ擬制の前提としてであれ、法の不確定性を承認するや否や直ちに、人格間の紛争を法によってあらかじめ定められたとおりに解決することができないとすれば、いったいいかにして紛争を解決し社会秩序を維持することが可能なのか、という初発の問いが再び提起されることになるからである。

(21) 法の確定性の主張は、法的言明についての実在論として理解することができるだろう。ダメットによれば、実在論とは「言明はわれわれから独立に存在する実在によって真か偽かなのである、という信念」である。マイケル・ダメット(藤田晋吾訳)「実在論」『真理という謎』(勁草書房、1986年)95頁。伝統的な法理論は、法的言明の真理値が、我々から独立に存在する法の意味によって一義的に決定されると考えるのである。

(22) See, e.g., Roberto Mangabeira Unger, THE CRITICAL LEGAL STUDIES MOVEMENT 8 (1986).

(23) See Robert Justin Lipkin, Indeterminacy, Justification and Truth in Constitutional Theory, 60 FORDHAM L. REV. 595, 600 n.23. (1992).

(24) Charles M. Yablon, The Indeterminacy of the Law: Critical Legal Studies and the Problem of Legal Explanation, 6 CARDOZO L. REV. 917, 917 (1985).

(25) See, e.g., Ken Kress, Legal Indeterminacy, 77 CAL. L. REV. 283, 296f. (1989); Lawrence B. Solum, On the Indeterminacy Crisis: Critiquing Critical Dogma, 54 U. CHI. L. REV. 462 (1987); John Stick, Can Nihilism Be Pragmatic?, 100 HARV. L. REV. 332, 354ff. (1986).

(26) David Millon, Objectivity and Democracy, 67 N.Y.U.L. REV. 1, 35 (1992).

(27) Joseph William Singer, The Player and the Cards: Nihilism and Legal Theory, 94 YALE L.J. 1, 19 (1984).

(28) See, e.g., Kenney Hegland, Goodbye to Deconstruction, 58 S. CAL. L. REV. 1203 (1985); Frederick Schauer, Easy Cases, 58 S. CAL. L. REV. 399 (1985); Solum, supra note 25, at 471f.

(29) Cf. Anthony D'Amato, Pragmatic Indeterminacy, 85 NW. U.L. REV. 148, 162-170 (1990); Anthony D'Amato, Aspects of Deconstruction: The 'Easy Case' of the Under-Aged President, 84 NW. U.L. REV. 250 (1990).

(30) See, e.g., Singer, supra note 27, at 12(法の「確定性は、理論家と裁判官の両方にとって、法の支配のイデオロギーのために必要である。それは、裁判官が法を作るのではなく法を適用する唯一の方法である」).

(31) Cf. Frederick Schauer, Formalism, 97 YALE L.J. 509, 539ff. (1988).

(32) See Andrew Altman, Fissures in the Integrity of Law's Empire: Dworkin and the Rule of Law, in READING DWORKIN CRITICALLY 167 (Alan Hunt ed., 1992).