憲法学スクーリング(佐藤幸治先生)レポート(1993/2/15提出)
                        
憲 法 の 解 釈 方 法 に つ い て の 若 干 の 考 察
                        
佐藤 憲一(京都大学大学院法学研究科修士課程1年)
 
 
はじめに
 
 ある基本的権利が、明記はされていないものの憲法典に含意されているとみなされるとき、そうした権利は「黙示的基本権」(implied fundamental rights)と呼ばれる。黙示的基本権をめぐる議論は、アメリカ合衆国の憲法学において常に重要な位置を占めてきたが、現在では、憲法解釈の方法に関する「原意主義」対「非原意主義」の論争として展開されている。
 本稿ではまず、合衆国における憲法解釈方法論争が英米法の伝統とは乖離した形で行われていることについて法史学的・法社会学的に考察する(T)。次に、この論争は「司法審査と民主主義」という構図で論じられることが多いが、多数者支配主義としての民主主義は原意主義者が主張するほど擁護すべき優越性を持たないことを論じる(U)。さらに、憲法典中の権利章典にいかなる拘束性があるのかについて考察し(V)、最後に、これまでの議論を踏まえ、合衆国という文脈を離れたより一般的な視座から私見を述べることにしたい(W)。
 
 
T
 
 元来、英米法は大陸法とは異なり判例法を第一次的法源とする判例法主義を採っている。例えば『法の性質及び起源』においてグレイは「国家及びいかなる人間の組織体の法も、裁判所、すなわちその組織体の司法機関が、法的権利と義務の決定のために定めた諸ルールから構成される」と論じ、「裁判所が定める」ということを法の要素としている。大陸諸国においては、法は完全無欠の形で制定法の中に規定されており、いかなる法律問題の解決もそれらの規定から直接に、またはそれらの規定からの演繹・類推によって、導かれると考えられ、判例は制定法の規定を特定の事件に適用した実例にすぎず、制定法を解釈する際の参考資料の一つにすぎないとされてきた。これに対して、英米においては、制定法は大陸諸国におけるような重要な意義を持たない。制定法は決して自足の体系をなしているのではなく、連絡のない個々の事項についてばらばらに存在するのであり、あくまで判例法の補充・修正・成文化の意義しか持たないのである。それゆえ、大陸諸国における制定法が、様々な法律問題に対応し得るように簡潔かつ一般的・抽象的な形で、要件・効果を定めているのに対し、英米における制定法は、極めて詳細かつ個別的・具体的な形で要件・効果を定めているのである。
 合衆国憲法はもちろん制定法であるが、このような英米法の特徴から見ると極めて異例な制定法であると言うことができる。現在合衆国では、憲法典の解釈方法をめぐって活発に議論が展開されているが、その議論は、日本あるいは大陸諸国において主に民法学を中心に法学方法論ないし法解釈方法論として展開されてきた議論とほぼ類似した構図で展開されている。こうした議論において合衆国憲法は、英米法において一般に理解されている制定法とは異なり、むしろ大陸法において理解されているような制定法として理解されているように思われる。大陸諸国における法律問題の解決は、前もって抽象的・普遍的な命題を制定規定として観念的に作り上げておき、具体的事件をその普遍的命題からの演繹によって解決するといった方法でなされるのだが、合衆国における憲法問題の解決も類似した方法でなされるべきだと主張されることが多いのである。英米法においては伝統的に、具体的事件において現に直面しているような問題を考えたことがあるかどうか分からない人によって作られた普遍的命題によって事件を解決するのではなく、実際に同種の事件を解決する際に作られた先例を尊重し正義に合致するように事件を解決するべきだとする、具体的経験を重視する思考方法があるのだが、憲法解釈をめぐる議論においてはこのような思考方法とは異質なものがあるように思えるのである。
 しかしながら、合衆国憲法が大陸諸国における憲法典と同様な位置を占めているというわけではない。大陸諸国においては伝統的に裁判所の地位が低く、法の支配という観念が存在しなかった。そのため、合衆国のように通常の司法裁判所が違憲立法審査権を行使するという観念は生まれなかった。大陸諸国における憲法典は、民法典などの通常の制定法とは異なった位置にあり、司法裁判所が具体的事件に適用すべき法とは考えられていない。こうしてみると、合衆国憲法は司法裁判所が解釈すべき制定法という意味において、大陸諸国の通常の制定法とパラレルなものとして考えられるように思われる。それでは、こうした奇妙な現象は一体いかにして生じたのであろうか。
 周知のように、英米公法の基本原理は「法の支配」である。「法の支配」の特徴は大陸諸国において用いられる「法治主義」という言葉と比較することによって明らかにすることができる。「法治主義」とは法を道具として統治すべしという考え方であって、法が拘束するのはあくまで被治者である。従って、統治者が作る法の内容には関知しないのであり、どんな悪法であってもかまわないことになる。また、統治(行政処分)が法に違反したか否かの判断も、行政部内に設けられた行政裁判所によって判断すれば足りるとされる。これに対して、「法の支配」において法によって支配されるのは主として統治者・権力者である。統治者は正義にかなった統治をしなければならず、「法の支配」は統治者の権力を制限するという機能を果すのである。また、「法の支配」は「司法府の優位」を含意している。何が法であるかの最終的決定権は、政治権力から独立した司法裁判所にあるのである。「法の支配」は「正義の支配」とも「(司法)裁判所の支配」とも言い換えうる観念であり、権力から独立した裁判所によって権力を制限し個人の自由と権利を守ることが、「法の支配」の思想の核心なのである。
 このような「法の支配」の観念は判例法主義と密接に関連するものであった。裁判所のみが具体的な事件において正義を体現する法を発見することができるという観念が、一方で「法の支配」の観念を、他方で判例法主義を生み出したのである。従って、「法の支配」において統治者・権力者を拘束する法は、当然、判例法であった。例えば、ダイシーは「法の支配」の原理の一つとして、憲法が通常法の結果であることを挙げている。『憲法論』においてダイシーは「例えば身体の自由の権利や集会の権利といた憲法の一般的諸原則は、イギリスにおいては、裁判所に提起された個々の事件において私人の権利について判定した結果であるが、多くの外国の憲法の下では、個人の権利に対して与えられる保障は憲法の一般的諸原則(憲法典に掲げられた人権宣言)の結果として生じる」と論じているが、彼によれば、諸外国に例を見ないこの現象こそイギリスの誇るべき「法の支配」の原理の一要素なのである。憲法上の人権の保障は、あくまで具体的な判例の積み重ねによって作り上げられるのであり、天下り的に、はじめから憲法典に抽象的に規定されたものではないということが、「法の支配」の原理の一要素である限り、憲法問題と通常の法律問題との間に実質的な違いは存在しなかった。いずれも先例を尊重する法発見という伝統的な方法によって解決されたのである。
 しかしながら、英米法の伝統からすれば異質な成文憲法典を有することとなった合衆国においては、「法の支配」の観念に大きな変容が生じた。確かに、硬性憲法で人権の保障を規定することは「法の支配」の思想の継受を不動のものとし、法の支配の内容を明確化したという意味で、それ自体「法の支配」の強化であったと言うことができる。ダイシーが天下り的に宣言された権利保障について危惧したような問題も生じなかった。というのも、合衆国憲法において保障された人権は天下り的に宣言されたものではなく、そのほとんどがイギリスにおいてすでに確立していた人権を列挙したものであったし、また合衆国はイギリス法を全面的に継受したからである。成文憲法の制定はさらに、国会万能のイギリスには存在しない司法裁判所の違憲立法審査権を導出することとなり、「法の支配」の原理の徹底化を推し進めた。マーベリ判決において、マーシャル主席裁判官は極めて形式的な理由によって裁判所が違憲立法審査権を有することを正当化したが、こうしたことが可能になったのも憲法の成文化によるものであった。裁判所が違憲立法審査権を有することによって国民の人権保障が確実なものとなったという点で、憲法の成文化およびマーベリ判決は画期的な意義を持ち「法の支配」の前進と呼び得るのであるが、それは同時に伝統的な意味における「法の支配」を掘り崩すものでもあった。
 伝統的な「法の支配」の理念を純粋に徹底化させるならば、コークが1610年のポナム医師事件の判決において、「国会制定法が、一般の正義と理性に反し、コモン・ローに反し、または執行不能の場合には、コモン・ローはかかる国会制定法を抑制しこれを無効と判決するであろう」と述べたように、裁判所は成文憲法典の有無にかかわらず国会制定法の妥当性を審査する権限を有するはずである。しかしながら、イギリスにおいては国会主権の原理が確立したことにより裁判所が国会制定法の妥当性を審査することは不可能となり、「法の支配」の理念は不完全にしか達成されなかった。合衆国が成文憲法に基づく違憲立法審査権を確立させたことは、イギリスにおいて成長を阻まれていた「法の支配」の理念が、新天地において再び自己の十全な成長を目指して成し遂げた一つの成果ではあったが、完成態に至る道ではなかったのである。
 合衆国において、「法の支配」は、伝統的な意味の核心を放棄することによってのみ成長することができた。すなわち、「法」という言葉は、伝統的には、正義と理性(およびその結晶であるコモン・ロー)を意味していたのであるが、専ら合衆国憲法を意味することになってしまったのである。「正義と理性の支配」と「憲法典の支配」とでは意味が全く異なる。前者は、普遍的な正義が存在するという自然法思想を含意するが、後者は、法実証主義を含意するからである。確かに、違憲立法審査権の確立において自然法思想が影響を与えたと言われる。しかしながら、議会の制定した法律に優越する国家の最高規範を成文法という形で持ってしまったことにより、裁判所はその成文法(合衆国憲法)を無視して自然法を適用することが不可能になった。法律は、あくまで憲法典に違反するから無効とされるのであって、裁判所が発見する正義の原理に反するから無効とされるのではないのである。
 裁判所が法律を無効にするためには、どうしてもその制定法が憲法典に違反しているという形を取らなければならない。逆に、法律が有効であると判定する場合も、それは憲法典に違反していないから有効なのである。このことから、あらゆる憲法問題の解答は憲法典の中にあるという観念が必然的に生まれてくる。憲法問題は全て憲法典を適用することによって解決しなければならないのであって、憲法典の条文から直接解答が導けない場合には解釈がなされなければならないのである。ここに英米法の伝統とは異質な法の観念が生じる。そして、この法の観念こそは、まさに、大陸法において伝統的な「欠缺なき統一体としての法」という観念と一致しているのである。
 こうした大陸法的な法観念によって理解された憲法典は、大陸法的な方法によって解釈されなければその機能を十分に果し得ない。大陸法において発展した法解釈学は、法教義学と呼ばれるように、所与のドグマから具体的な事件の解答を論理的に導出するという形式を採る。これは概念法学と批判されることもあるが、抽象的・一般的な法規から無限の具体的事件の解答を引き出す技術としては、極めて洗練されたものであり、法的安定性と具体的妥当性の両方を満たしうる解決を与えることができるという点に着目し近年では肯定的な再評価がなされている。合衆国において、裁判所が大陸法的な法観念に基づき、憲法典に拘束されつつ具体的事件における正義を追求しようと試みるのであれば、この教義学的技術をマスターする必要がある。とりわけ合衆国憲法は、その成立時期や連邦制を採用しているといった理由から、他の憲法典ほど詳細に国民の基本的権利を明記するという形式になっていないため、憲法典から様々な具体的権利を導出するためには極めて熟練した教義学的技術が必要となるはずである。
 しかしながら、憲法典を大陸的な法観念によって理解しなければならない必然性は存在しない。実際、大陸においては、憲法典の解釈は司法裁判所でなされているわけではないのである。そもそも、大陸流の教義学的な法観念は、英米法の伝統においては極めて異質なものである。英米の裁判所は現在でも、通常は、先例の拘束性によって法的安定性を、正義と理性に基づく法発見によって具体的妥当性を、確保するという伝統的な紛争解決を行っている。憲法訴訟においても、判例によって、LRAや「明白かつ現在の危険」基準など、日本の憲法学でも尊重されるような法理を発見(創造)しているのであって、このような裁判実践と大陸的な教義学的な解釈方法とが齟齬をきたす可能性は少なくない。裁判所が抽象的・一般的な成文法典を解釈して具体的な事件に適用するといった発想は、合衆国の伝統には馴染まないのではないだろうか。また、いくら努力しても、伝統の異なる合衆国においては、大陸の方法の真髄を理解することはできないだろう。実際、現在の原意主義対非原意主義という憲法解釈方法論争を概観する限り、とりわけ原意主義者の主張を見る限り、解釈ということの意義を理解しない極めてナイーブな議論に終始しているように思われる。教義学的な方法は、最良に機能した場合には優れた成果を挙げ得るけれども、同時に弊害も多い方法なのであり、採用すべき必然性がない限りできるだけ採用しないほうが良いのではなかろうか。
 大陸においては、裁判所に権威がなく、裁判所はみずから法発見を行う能力も正統性も持たなかった。自ら正統性を持たない裁判所が判決の正統性を得るためには、正統性を有する権威的なテクストである国家制定法からの論理的演繹によって具体的な事件の判決を導出したという形を採らざるを得なかった。裁判所は何ら新たに付け加えるものではなく、始めからテクストによってその事件がそう解決されるように決っていたという形を採らざるを得なかったのである。大陸の裁判所は、「国家の裁判官は制定法の文言を述べる口でしかなく、その文言の力や厳しさを緩和することなどできぬ無機的存在にすぎない」というモンテスキューの主張に適合するような形でしか存在を許されなかったのである。
 しかるに合衆国の裁判所は、英米法の長い伝統に培われた権威と正統性を有している。現在の大陸法の源流となったローマ法も、コモン・ローと同様、古代ローマにおいて自ら権威と正統性を有する裁判所の判例の集積として作り上げたられたのであり、法史学的に見れば、テクストの権威に依存する近現代の大陸諸国の裁判所は裁判所というものの本質から逸脱した畸形なのである。大陸においては望んでも得られなかった権威と正統性を手にしている合衆国の裁判所がわざわざ大陸の畸形的な方法を模倣する必要はどこにもない。法の支配と判例法主義という伝統を有する合衆国において、裁判所が教義学的な方法を用いて具体的事件を解決することは、かえって、せっかく保持している正統性を掘り崩すことになるのである。合衆国の裁判所は、正義と理性の支配という意味における「法の支配」の伝統を、純粋に発展させていくべきなのではなかろうか。
 
 
U
 
 黙示的基本権の問題は正統性をめぐる問題として論じられてきた。すなわち、民主的基盤の欠けた裁判所が、憲法上明文の根拠があるわけでもないのに、国民の代表機関である議会が制定した法律の効力を停止することに正統性はあるのか、という形で問題が立てられてきたのである。こうした構図においては、民主主義に基づき法律に正統性があることは自明のこととされ、法律を違憲にする側が自己の正統性を立証しなければならないことになる。原則として、議会の制定した法律は正統なものとして妥当するのであって、裁判所が法律を違憲としうるのはあくまで例外的なこととされるのである。要するに、正統性に関する挙証責任は裁判所の側にあるというわけである。しかしながら、こうした問題の立て方は決して自明のことではない。なぜなら、ここにおいては暗黙の内に、法律が民主主義的正統性を持つこと、すなわち、法律が国民の多数者の意思を反映していること、が前提とされているが、この前提は疑ってかかる必要があるからである。
 「民主主義」という言葉は様々な意味で用いられるが、憲法解釈方法論争の文脈においては、「公共政策が、政治的平等に基づき政治的自由の(一般的)条件の下で行われる定期的な選挙で実効的な人民による統制に伏する代表者によって、多数決によって行われる」政治制度を意味する(ペノックによる定義)ようである。これはいわゆる多数者支配主義として理解することができる。原意主義者は、憲法の原則は民主主義であり、憲法が条文で明示的に多数者支配主義の例外と指示したものだけが民主主義の例外であって、裁判所は憲法条文に明記された多数者支配主義への制限を執行している場合にのみ民主主義的正統性を有する、と主張する。原意主義者は、憲法条文による明文の根拠なしに、民主主義的正統性を有する法律を無効にすることはできない、と考えるのである。
 民主主義を、単なる手続として、つまり、国民から選出された議員の多数決によって決定がなされることとして、理解するならば、法律は確かに民主主義的正統性を持つかもしれない。しかしながら、そうした手続に価値があるとされるのは、やはり、そうした手続によってなされた決定は国民の多数者の意思を反映しているはずだ、という暗黙の了解があるからであろう。仮に、決定が国民の多数者の意思を全く反映していなかったとして、そうした決定手続自体に何らかの価値があると主張するのはあまりにも馬鹿げているからである。民主主義を重視する原意主義者は、法律が民主主義的正統性を持つということを自明視しているが、民主主義を国民の多数者の意思を反映した決定がなされるべきことと定義した場合、法律が本当に民主主義的正統性を有していると言えるであろうか。なおここでは、国民の多数者の意思を反映した決定がなされるべし、という理念として民主主義を捉えるわけであるが、「国民」という言葉はある時点におけるその国の国籍保持者を意味している。有権者と考える場合には、有権者の多数の意思を反映して決定がなされさえすれば民主主義にかなっているということになってしまい、選挙権を極めて制限しているような国を非民主主義的だと批判することが不可能になるからである。憲法学においては、「国民」によって、過去及び未来の国民を包摂した観念的統一体としての国民を指すこともあるが、こうした意味における「国民」が問題になるのは、正統性の原理としての国民主権が問題になる場合のみであろう。ここでは、国民主権とはとりあえず区別されたものとして、民主主義を捉えているのである。
 理念としての民主主義は議会制という制度によって実現されることになる。しかし、有権者団を国民と擬制するという不可避的な限界はさておき、選挙制度の如何によっては、普通選挙が実行されていても、議員選出の際の定数不均衡によって、少数の国民が相対的に多数の議員を選出してしまうことはよくあることである。とはいえ、裁判所と比べたら、現実に国民によって選出されているだけより民主主義的であるといえるかもしれない。しかしながら、いくら議員達が国民によって選出されているからといって、法律が、国民の多数者の意思を反映しているということにはならない。国民の多数が反対している法律が制定されることがよくあるからである。人民主権論と区別される国民主権論に基づく以上、議員達は独立した意思に基づいて行動できるのであるから、現実には、法律は国民の多数者の意思ではなく、国民によって選ばれた議員の多数者の意思を反映しているにすぎない。いわゆる代表民主制は、先に定義した意味における民主主義を、必ずしも実現するとは限らないのである。それでも、議員達が、自己の良心に基づき国民の福利のために誠実に奮闘しているのであれば、かろうじて民主主義的と言えるかもしれない。しかし、政党政治の現状においてはそうしたことは望むべくもない。またロウィが「利益集団民主主義」として指摘するように、政策決定においては、利益集団が大きな役割を果たしており、議会においては、力ある小数者の意見を反映した非民主主義的な法律が制定されている。例えば、多くの国民が望んでいる規制立法が、企業との癒着によって骨抜きにされることは日常茶飯事なのである。
 従って、法律が国民の多数者の意思を反映していることをア・プリオリに前提にすることはできない。法律は形式上はともかく内容面から見て必ずしも民主主義的であるとは言えないのである。法律が、実際には、民主主義的正統性を持っていないのだとしたら、民主主義的正統性のない裁判所が法律を違憲にすることはできるだけ控えるべき、といった議論は当らないことになろう。そもそも法律は常に国民の権利を侵害している可能性がある。裁判所は常に疑いの目をもって、法律を見なければならないのである。裁判所が最善をつくしてやっても分野の性格上おのずから能力の及ばないところはでてくるであろう。それは仕方のないことである。しかしながら、「二重の基準」などと言って、はじめから分野によっては緩い審査基準で審査するといった態度を取るとしたら、これは怠慢と言わざるをえない。
 それでは、仮に、法律が完全に国民の多数者の意思を反映しているという理想的な状況が実現したならば、裁判所は民主主義を尊重して法律の違憲審査をできるだけ控えるべきなのであろうか。この問いにイエスと答えることは、民主主義が他の諸原則に優越する第一原則であることを前提としている。裁判所による違憲立法審査権は、それ自体積極的な価値を持つというより、むしろ第一原則に反する必要悪なのであり、そうである以上、その行使は憲法典が明示的に民主主義に対する制約として認めた場合に限定されるべき、とされるのである。しかしながら、民主主義を第一原則として公理的に前提することは決して自明のことではない。民主主義は決して絶対的な特権的価値ではないし、合衆国憲法から必然的に民主主義が第一原則だということが出てくるわけでもない。民主主義を擁護したい者は、その正統性を自ら積極的に論証する必要があるのである。実質的な価値として、民主主義を虚心に眺めてみた場合、問題によっては民主主義的決定が望ましくないものがあることが分かる。民主主義が無制限に広がることは極めて危険である。そもそも、様々な問題のうち多数決によって決定されるべきものは極めて少ないのかもしれない。
 第一に、人間は、自己の善き生の構想について自分自身で決定し得るという自己決定権を持つ。こうした私的な領域において民主主義による決定方式を用いることは許されない。他人の自由を侵害しない限り、人は自分に関ることについて、個性を発揮し自由に決定することができるのである。さらに、どこまでが個人の自己決定権の妥当する領域で、どこまでが民主主義的決定になじむ領域かという問題を民主主義的に決定することはできない。どこまでが自己決定権の領域かということは、原理的な問題であって、多数決でどうにでもなるといったものではないのである。仮に、多数派が少数派の自己決定権の領域を決定するとしたら、自己決定権の権利としての性格は失われることになる。
 第二に、当然のことながら、生命・身体の自由を始めとする国民の諸権利を侵害するような決定も、民主主義によってなされたからといって正統性を持つわけではない。そもそも、そうした決定を行う権限はないのである。
 第三に、国民の諸権利との関連性が薄いと思われる外交政策や経済政策についても、民主主義的決定方式が最善だとは言いがたい。というのも、本来、国家は国民の払う税金で運営されているのであるから、貴重な血税を浪費しないように、様々な側面から考慮した上で、最少のコストで最大の成果を挙げうるような政策を選択しなければならないはずである。政策決定が議会にまかされているのは、現在のところそうした予測が不完全であるための次善の策であって、決してそれ以上の理由はないのである。議会は、ハーバーマスが指摘するように戦略的行為の場である。そこで考慮されるのは様々レベルにおける私益であって公共性ではない。大衆民主主義が必然的に随伴する利益誘導型政治においては、法案は妥協によって作られるのでありそれが最善の選択であるからではない。仮に最善の選択が明らかであっても政治力によって歪められることが多いのである。民主主義に積極的な価値があるとすれば、まったく同等な選択肢が複数ある場合のみであろう。
 多数者の意思を反映した決定というものが原理的に不可能であることも指摘されている(アロウの定理)。このように見てくると、民主主義というものが、実際のところ、政治システムの正統性を調達するための手段として極めて有効であるとしても、司法審査によって保護される価値と較べてそれほど価値的に優越性を持つものではないことがわかる。
 
 
V
 
 民主主義的正統性をめぐって困難が生じないとしても、議会が制定した法律を、裁判所が恣意的に違憲にすることは許されないと考えられる。そこで、原意主義者は、裁判官は憲法典に拘束されなければならない、と主張する。憲法の条文に明記されていない権利に基づいて法律を違憲にすることは、裁判所の恣意的な権力の行使である、と言うのである。これについては、非原意主義者にしても、裁判官の判断が恣意的でないような基準として自己の理論を提出しているわけであるから、憲法典の条文を離れたからといって必ずしも恣意的な判断であるとは言えない、という反論が可能である。問題は、恣意的であるか否かであって、憲法典に拘束されるか否かではない。そもそも、国民の諸権利に関する問題について憲法典は拘束力を持たないのではないだろうか。憲法典に国民の諸権利を列挙することは、そこに明記されていない権利を国民が持たないということを意味するのであろうか。
 そもそも1787年に制定された始めの憲法には権利章典がなかったが、起草者は国民が権利を有することを疑っていなかった。実際、権利章典を作らなかった理由の一つとして、権利章典として列挙することによって、それ以外の権利は保障されないと思われることを危惧したことが挙げられているのである。結果として、権利章典が付加されたことにより、不幸にもこの危惧が現実のものとなってしまったのである。
 今日では、自然法という言葉を用いることは好まれないが、とにかく前国家的に、人々が普遍的な道徳的権利を持つことを否定する者はいないだろう。これは自然権と呼ばれるが、まさに人間社会にとっての普遍的な正義に基づくものである。普遍的な正義がいかなるものであるかは、論じられるべき問題であろうが、J.S.ミルの「危害原理」が、社会における正義の基盤である自然権と、国家の存在意義を説明してくれるだろう。ミルは『自由論』において、「人類が、個人的にまたは集団的に、誰かの行動の自由に正統に干渉しうる唯一の目的は自己防衛である。すなわち、文明社会の成員に対し、彼の意思に反して、正統に権力を行使しうる唯一の目的は他人に対する危害の防止である。」と論じている。人間の自由は他人の同等の自由の危害を防止する目的においてのみ制限されうるというこの「危害原理」は、現在パターナリズムの正統性をめぐる論議において用いられることが多いが、これは同時に、人間が、他人の同等の自由を侵害しない限り自由であるという自然権をもつこと、及び、各人の自然権を保護し自由の侵害者に対処するという目的のための正統な権力として国家が存在意義を有すること、を含意しているのである。
 人は他人の同等の自由を侵害しない限り自由である、という原則から導出される様々な権利は、あくまで前国家的に、人が人である以上有する権利なのであって、決して国家からの自由に限定されるものではない。それゆえ、これらの権利が私人間でも効力を有するかということを問うのは本末転倒である。そもそもこれらの権利が私人間で実現することを保障するために国家は存在するのだからである。従って、これらの権利を侵害してはならないのは自明の理であり、仮に憲法典に一つもこれらの権利が明記されていなかったとしても、国家がこれらの権利を侵害してよいということになるわけがない。憲法以前に存在する国家の絶対的権力を憲法によって制限するといった考え方からは、憲法典に明記されていない以上、国家はこれらの権利を侵害しうると解されるかもしれない。これは、立憲主義の歴史からすれば正しいかもしれないが、なんら原理的な正統性をもつものではない。
 国家は、正義を実現するための正統な権力機構として、憲法によって初めて作られる。すなわち、憲法は国家の存在を可能にする構成的ルールなのである(国際法などでは、憲法が変っても政府が変わるだけで、国家は変わらないと論じられるが、むしろ、変らないのは、「国」であろう)。従って、憲法の中核は統治機構に関する規定にある。憲法典に権利章典が明記されるのは、そうしなければ国民の権利が存在しないことになるからではなく、歴史上多くの国家が国民の権利を侵害してきたという不幸な事実ゆえに、自明の理を改めて確認せざるをえなかったということなのである。憲法典に権利章典を作ったばっかりに、そこに書かれているもの以外は権利ではなく、国家は自由に介入できると解されるとすれば、それは悲劇というほかない。これらの権利は、個々の国家に先立つ普遍的なものであって、これらの権利を実現させるためにのみ国家は正統に存在しうるのである。個々の国家とその憲法が、正しいことと間違ったことを定める最終的権限を持つといった、法実証主義的な立場に立つならば、決して憲法や国制の批判をすることはできないことになろう。
 以上の議論からは、生命・身体の自由、思想・良心の自由、プライバシー権などのさまざまな自由権が保障されるとしても、社会権や生存権その他の後国家的権利は保障されないという結論が導かれると考えられるかもしれない。しかしながら、問題は正義に反しているか否かであって、具体的な状況において一定の生存権を認めないことが正義に反しているのであれば、裁判所は生存権を認めなければならない。ただミルの危害原理として挙げたのは、いかなる社会においても満たされるべき普遍的な正義の原理であり、そうした自然権(要するに、自己にかかわる全てのことについての自己決定権)は必ず保障されなければならないということなのである。
 
 
W
 
 なぜ、裁判所は「法の支配」の理念の守護者であって、立法府や行政府に対して優越するのであろうか。まず裁判所が理性の府であることに異論はないであろう。民主主義的な決定においては、多数が同意しさえすれば良いのであって、決定の理由は問われない。それに対して、裁判所の判決は決定の論拠を示さなければならず、判決が公開されることによって裁判官の思考の筋道が批判にさらされることになる。そのことによって、裁判官は理性的・反省的な思考を行うことを強いられるのである。そもそも、法律が正義にかなっているかということを、法律を作った立法府に審査させるのは無意味なことである。国家機関の内のどれかがやるとすればやはり裁判所であろう。議会や行政府は自己の決定について大きな利害を有する。しかし、裁判所は他人が争っている事件における第三者なのであり、利害に囚われる必要がない。また、裁判所の判断は常に具体的な事件においてなされるから、抽象的・一般的に考える立法府と比べて、裁判所は現実の状況における正義を見抜きやすい。英米法の伝統が教えるように、正義は抽象的理論からではなく具体的経験から得られるのである。
 原意主義については、実際の適用が不完全な法教義学になってしまう可能性があること、権利章典に挙げられていないから権利を認めないという法実証主義的見解になること、といった問題を指摘してきたが、合衆国憲法という文脈を離れ一般的に憲法解釈の方法としての妥当性を検討するならば、原意主義が全く擁護できないものであることが容易に理解されるであろう。第一に、なにゆえ現在の国民が過去の憲法制定者の意思に従わねばならないのであろうか。過去の憲法制定者は過去の国民ともいえない。憲法典の改正には、民主主義的原理と言える国民投票を要件にする国が多いけれども、憲法典の制定が国民投票を経てなされることは少ない。例えば日本国憲法がそうであった。憲法典の改正が国民投票を要件としているということに着目し、改正することができるのに改正していないのだから現在の国民の多数は憲法に同意している、という論拠から現行の憲法典の民主主義的正統性が主張されることがある。しかしながら、議会における特別多数決を要件とするなど憲法典の改正は通常極めて困難であるから、そうした議論は当らない。国民の権利が問題となるのは今ここでの具体的な事件においてであるのに、改正は常に次の事件からしか適用されない。この事件の正義にとって改正の可能性はイレレヴァントなのである。
 そもそも憲法は多数者から少数者を保護するという機能を果すものであるから、国民の多数者の同意によって憲法(ないし憲法改正)に正統性を与えることはできないであろう。また、何を原意とするかについて色々な説があるけれども、いずれにしても原意を正確に確定することは事実上不可能である。例えば、制定者達が憲法典のテクストについて同床異夢であった場合の原意はどう確定すればいいのだろうか。具体的な人間の意思からではなくテクストそのものから原意を見出すという立場を取ったとしても、妥協によって作られた憲法典の中には、対立する原理が混在することが多く、一つの整合的な意思をテクストから見出すことは不可能ではないだろうか。さらにヘルメノイティクが教えるところによると、テクストの原意などはそもそも存在しないのである。おそらく原意主義者は、たまたま自分が原意と考えるものが、自分が正しいと考えるものにかなっていたから原意主義者になったのではないだろうか。合衆国憲法の理念は極めて素晴らしいものであるといえるが、仮に、極めて邪悪な理念に基づく憲法典であっても、原意主義者は原意に従えと主張するのだろうか。憲法に優越するものとしての正義を認めない傾向にある原意主義では憲法典自体の正統性を決して基礎付けることができないのである。
 憲法解釈の方法に関する問題は、本来、極めて原理的な問題であって、自明性を疑いできるだけ論理的・分析的に考えていく必要がある。しかしながら、合衆国における原意主義対非原意主義の論争は、現代アメリカにおける様々な社会問題と密接な関係を持った政治的な論争としての性格を有するためか、原理的に考えるという点で不十分であるように思える。
 最も重要な問題は、合衆国という文脈のもとでの議論に終始することが多く、合衆国以外の国での妥当性をも考慮した一般的な議論にほとんどなっていないということである。合衆国での議論である以上当然ともいえるが、民法や商法とは異なり、最も本質的なレベルでのゾレンに関る議論である以上、普遍性の追求を放棄した議論は危険であるように思える。例えば、合衆国で論じられている議論のどれほどが日本でも使えるだろうか。文化的相対性に依存するような方法(伝統、エ−トス、コンセンサス等に依拠する方法)は、日本では自由や人権とは逆のベクトルを持つように思われる。また、先述したように、原意主義を採るとして、邪悪な憲法であっても原意に従わねばならないのだろうか。非原意主義にしても、憲法制定者の採っていた道徳理論に依拠するような議論では同じ問題が生じる。また、非原意主義者も憲法典の解釈という形を採ろうとするが、新しい権利をそこから導出したことにするべき包括条文が存在しない場合にはどうするのかということは考慮されていないようである。
 このように文脈を離れて議論することは、法律学としては望ましくないのかもしれない。Tで述べたように、英米法においては、裁判所の権威が高い故に、裁判所が自己の責任で正義と理性に基づいて法を発見することが可能なのであって、他の国には妥当しない議論であるとも考えられるからだ。しかしながら、正義と憲法典のどちらが優先するか、と問われて憲法典と答えることは、悪法も法であるとする悪名高い法実証主義である。憲法典が素晴らしいのもそれが正義にかなっている限りにおいてである。いかなる国においても、裁判官は正義を追求しなければならない。原意主義は、発見のプロセスにおいて原意に従うよう主張するが、それはそもそも不合理である。憲法典は、国家の最高規範として正義実現のためのメディアとして機能するのであり、仮に、憲法の条文に依拠しなければならないとしても、それは正当化のプロセスにおいてなのである。
 ロールズが、彼の「公正としての正義」論について、あくまで合衆国の政治文化の中に明示的・黙示的に包含されている基本的な諸直観の再構成にすぎないと語り、ローティが共感を示すほどローカルなものへと撤退したことを始め、哲学者でさえ、文化相対主義的な発想を示す現在、法学に普遍的な理論を求めるのは困難なことなのだろうか。ドゥオーキンの「インテグリティとしての法」にしても、ヘラクレスのような裁判官が実在するのか、という問題とは別に、個人主義と人権を尊重する法伝統を持たないところでは、邪悪な原理の一貫性を裁判官が追求するというような危険なものになりかねないのではなかろうか。
 アレクシーらによって、裁判が、制度化された実践的議論の場であることが指摘されているが、憲法典の解釈方法をめぐる議論が、憲法訴訟の制度化された実践的議論の場としての性格を捨象して、裁判官がテクストを解釈するというモノローギッシュな構図になっているところにも大きな問題がある。ヘルメノイティクを用いて裁判官が解釈共同体の中にいることを重視する議論もモノローギッシュな議論であることにはかわりがない。また、ヘルメノイティクに依拠する議論は、裁判官が恣意的に解釈しているわけではないことを弁明するためには有効であるけれども、現実に裁判官がどのように解釈しているか、ということと区別された、裁判官がいかに憲法典を解釈すべきか、という問題に答えるためにはそれほど有効ではないように思われる。
 
 
むすびにかえて
 
 以上の考察から、私は非原意主義を採用したいと考える。原意主義の中でも、原意による拘束を絶対視せず漸進的な改良を目指す立場であれば問題がないと言えるかもしれないが、その場合には、結局のところ実質的な価値判断が混入するのであり、そうである以上、原意に基づくということによって、裁判官の責任が不明確になり、また批判も困難になることは望ましくない。裁判官は、自己の判断の根拠を、原意という漠然としたオブラートに包みこむことなく、誠実かつ論理的に明らかにすべきである。漸進的改良は裁判官のそうした態度においてのみ可能になるのである。



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