幸 福 と 正 義 を め ぐ っ て


佐藤 憲一(京都大学/日本学術振興会)

1.権利と科学技術

 セールスマンやセールスレディの巧みな話術につられて、ついつい高価な商品を購入してしまう人は少なくない。値段と商品に満足がいけば何も問題はないのだが、後になって無駄な買い物をしてしまったと後悔する人が後を絶たないのが実状である。自業自得とはいえ、魅力を失った商品のために、高額の代金を支払わなければならないというのは、大変悲しいことであろう。しかし、クーリング・オフの権利を使えば、この不幸な境遇を変えることができる。昭和51年に制定された訪問販売法は、契約後8日以内であれば、違約金や損害賠償を払うことなく無条件で契約の解除ができることを定めている。これがクーリング・オフの権利である。かつては、後悔先に立たずで、契約書にサインをしてしまった以上、後でいくら嘆いてもどうしようもなかったが、クーリング・オフの権利が生まれてからは、後悔が十分に早ければ、契約書にサインをしていても、それをなかったことにすることができるようになったのである。

 こうしてみると、権利とは、それがなければ受け入れざるをえない現状を変えることのできる力だと言うことができるだろう。科学技術もまた同じような性格を有している。例えば、何十万桁もする数値の複雑な計算を全て筆算でやろうとしたら、計算が終わるまでにとてつもない時間がかかることであろう。何とか計算を終えることができたとしても、計算の途中にミスが入り込んでいないという保証はないし、それを確かめるために検算を始めようものなら、さらに膨大な時間が必要となる。数分以内に答えを出さなければならないとしたら、仮にこの計算が人類滅亡を回避するために不可欠なものであったとしても、我々はギブアップするほかないのである。しかし、高性能のコンピューターがあれば、それを使ってあっという間に答えを出すことができるかもしれない。コンピューターのハードウェアやソフトウェアを製造する科学技術は、それがなければあきらめざるをえない状態を変えることのできる力なのである。

 近代という時代は、科学技術が飛躍的に発展した時代として、また、人々の享受する権利が飛躍的に増大した時代として特徴づけることができる。近代という時代がそれ以前の時代と比べて肯定的に語られるのは、この二つの側面における進歩によって、かつては運命として受け入れざるをえなかった様々な事態を、受け入れずに変えていくことができるようになり、そうした事態がもたらす不幸から人々を解放することが可能になったからである。権利や科学技術は、不幸な現状を変えることによって人々を幸福にする力として、近代社会は、新しい権利や科学技術が次々に登場することによって、人々の幸福がますます増大する社会として理解されるのである。

 もちろん、こうした理解は一面的であるという批判を免れないだろう。原子爆弾を製造する科学技術の登場は罪のない多くの人々の死をもたらしたし、仮に無差別殺人の権利が生まれたとしたら、やはり罪のない多くの人々の死を招くはずである。権利や科学技術は現状を変える力であるが、その内容によって現状はいかなる方向にも変わりうるのである。しかしながら、このことは、権利や科学技術が現状を改善する力でありうること、そして、その限りにおいて、人々の幸福を増進させる力であることを否定するものではない。この批判はあくまで、権利や科学技術が現状を悪くする力でもありうることに対して警戒を促すものに他ならないのである。


2.幸福は客観的か?

 それでは、権利や科学技術が現状を改善する力でありさえすれば、人々の幸福は必ず増進されると言ってよいだろうか。このように問いを立てるのは奇妙に思えるかもしれない。現状が改悪されるのであればともかく、改善されるのに人々が不幸になるというのは、筋が通らないように思われるからである。実際、この問いが立てられることはほとんどなく、現状を改善すればするほど人々がますます幸福になるということが、至極当たり前のように信じられている。

 しかし、この問いを真剣に考えるならば、現状を改善することが必ずしも幸福の増大につながらないことに気づかされることであろう。これが一見背理に思えるのは、幸福の客観性が誤って前提とされているからに他ならない。幸福が客観的なものであるとしたら、人がどれだけ幸福であるかは、その人を取り巻く環境の状態を数値化することによって完全に把握することが可能である。数値が上がれば、すなわち現状が改善されれば、人はより幸福を感じるようになるだろうし、数値が下がれば、すなわち現状が改悪されれば、人はより不幸を感じることになるだろう。数値が変わらなければ幸不幸の度合いも変わらないし、同じ数値の状態にあれば誰でも同じ程度に幸福または不幸であるはずである。しかし、本当にそうだろうか。

 昭和60年、バーネットの『小公女』を原作にアレンジを加えた『小公女セーラ』というアニメがフジテレビ系列で放映され人気を博した。簡単にあらすじを紹介すると、父親が世界有数のダイヤモンド鉱山主だったことから「ダイヤモンド・プリンセス」と呼ばれ、寄宿学校の筆頭生徒として何不自由ない生活を送っていた主人公のセーラが、父親の死亡により屋根裏に住まうメイドへと身分を剥奪され、数々のつらい目にあうものの、最後には父の友人に引きとられて、再び「ダイヤモンド・プリンセス」に返り咲くというものである。

 このアニメの視聴者はセーラの不幸にこぞって涙を流したが、実は登場人物の置かれた状況を客観的な数値で測定すれば、ベッキーという少女の方が、番組の最初から最後まで一貫してセーラよりも悪い状態にあった。セーラがダイヤモンド・プリンセス→メイド→ダイヤモンド・プリンセスという道をたどったのに対して、ベッキーはメイド→メイド→セーラの侍女という道をたどった。同じメイドである時期も、セーラとベッキーの間にははっきりとした上下関係があり、ベッキーと御者のペーターはセーラをあいかわらずお嬢様と呼び続けていたし、容姿の点でもベッキーはセーラとは比べものにならなかったのである。従って、幸不幸が客観的な状態の評価と対応するのだとしたら、ベッキーはセーラよりもはるかに不幸な少女であると言えるだろう。しかし、ベッキーのために涙を流す視聴者はいなかった。ベッキー自身も、セーラの不幸に同情こそすれ、自分が不幸であるとは全く思いもしなかったのである。

 ベッキーが不幸であると誰も思わなかったのは、ベッキーがメイドであるのが当たり前の状態であると視聴者もベッキー自身も思っていたからであろう。一般に、ある人の状態が超越的な視点から見てどれほど劣悪なものであったとしても、それが本来の状態であると認識されているとき、しかもその認識を当人だけでなく社会全体が共有しているとき、人は自分が不幸だとは感じない。逆に、数量的に見てどれほど豊かな状態であっても、本来あるべき姿と比べて劣っていると認識されれば、その状態は不幸な状態である。人が勝手に自分の本来の姿を夢想しているのであればともかく、社会一般の了解が背景にあるならば、その人はまさに不幸な人として、セーラのように多くの同情を集めることになるだろう。幸福や不幸は数値から客観的に判断できる事柄ではないのである。


3.希望の問題性

 アメリカでは今日、黒人に対する差別的な取り扱いはほとんど消失し、黒人と白人の間の経済格差も大幅に小さくなっている。少なくとも、奴隷制の存在した南北戦争以前の状況と比べると天国と地獄ほどの差があると言ってよい。しかしながら、黒人の側の差別されているという不満は一向になくなりそうにない。むしろ、奴隷制が厳然と存在していた時代の方が、不満が小さかったとすら言えるのである。

 この逆説的な状況はやはり、幸不幸が客観的な問題ではないことに起因している。客観的に見れば、白人の奴隷であることと、白人との間に若干の格差が残っていることの間の優劣は明らかである。前者は後者とは比べものにならないほど悪い状態なのである。しかし、奴隷であることが当たり前であって、それが変わりうるとは誰も思わないような社会において奴隷であることと、平等であることが当たり前であって、全ての不平等が消えてなくなるべきだと了解されている社会において不平等に遭遇することとを比較すれば、後者の方がより悲しく、より不幸な状態であると言えるのである。

 ここにあるのは、希望が不幸を生みだすというメカニズムである。現状を改善する力として登場した権利や科学技術が、幸福を増進させようとして、かえって不幸をもたらしてしまいかねないのは、このメカニズムが存在するからである。脳死患者からの臓器移植技術の進展は、一昔前であれば死が不可避であった難病の治療を可能にした。このことは、そうした病気に苦しむ患者やその家族にとって福音であるだろう。臓器移植の技術は、不治の難病に苦しみ死を待つだけの現状を変えることのできる力なのである。しかし、この技術は患者や家族に喜びと幸せをもたらすばかりではなく、かつては存在しなかった新しい種類の悲しみや不幸をうみだすものでもあった。それは、臓器移植の技術によって自分や愛する人が助かる可能性が存在するにもかかわらず、結局助からずに死んでしまうという不幸である。高額の医療費を払うことができずに、あるいは適合するドナーがたまたま見つからずに、愛するわが子を死なせなければならないとしたら、親の悲しみはいかばかりであろうか。

 もちろん、現在の医学と医療技術の到達点を超えた難病で死ぬ場合も、愛するわが子を失う悲しみは同じである。しかし、不治の病で死ぬのであれば、運命として、納得はできないものの、なんとか受け入れることが可能である。誰も責めることはできないし、どうしようもなかったのだとあきらめ、悲しみを克服することができるのである。これに対して、病気を治すことが現在の医学と医療技術の水準で十分可能であるにもかかわらず、様々な事情で治せずにみすみす死なせてしまうことになったとしたら、その事態を受け入れることは極めて困難である。助かる可能性があったのだから、どうしようもなかったのだとあきらめることはできない。「あのときああしていたら」といつまでも自分や他人を責め続け、悲しみは容易に癒えそうにないのである。

 科学技術と同様に、権利も不幸の原因となりうる。会社のため休日返上で寝る間も惜しんで働いていた夫を心不全で亡くした妻は、夫の死は過労死であるとして労災の適用を求めるだろう。認められなければ裁判に訴えることもできる。過労死の場合に労災補償を受ける権利が存在するからである。この権利が存在しなければ、残された妻はあきらめるしかなかったであろうが、この権利が存在する以上、裁判に勝ちさえすれば、補償を受けることができるのである。しかし、あくまで「裁判に勝ちさえすれば」である。夫の無念を晴らそうと、高額の裁判費用をなんとかまかない、長期にわたって全力で裁判を戦ってきた結果が敗訴であったとしたら、妻の悲しみははかりしれないことであろう。全てを犠牲にして得られたのは、全てが徒労であったという深い悲しみだけなのである。

 このように、権利や科学技術は人々に希望を与えるものであるが、希望は実現するとは限らないから、権利や科学技術は人々に失望を与えるものであるとも言うことができる。我々は概して、希望の側面にばかり目をやりがちであるが、希望の裏面にある失望の契機にも注意を払う必要があるだろう。あまりにも悲惨な現状を目にして、ほんの少しでも改善する方向に向かえばと思う気持ちが間違っているわけではない。しかし、「現状は不正であり、改善された状態に正義がある」と説くことが、現状に生きるしかない人々にとってどういう意味を持つのか真剣に考える必要があるのである。


4.おわりに

 この問題は、現状を変える力として機能しない真理や正義の単なる提示の場合に、より大きくあてはまることである。現状には虚偽があるとか、現状は不正であるとか説くことは、それがたとえ実際に真理と正義の啓蒙であるとしても、人々の幸福を増進させる行為ではありえない。現状とは別の可能性があり、そちらに真理と正義があることを知ることによって、人はそれまで感じなかった、あるいは抑えることのできた不満を抑えることができなくなるかもしれない。その不満をてこに現状のすみやかな変革が期待できるのであればともかく、現状が当面変わりそうにない場合は、ただ不満だけが増大することになるのである。

 一般に、社会の変革を志向する思想は、現状を否定的に描写することで、未だ変革されざる状況で生きてきた人々の人生を貶め、そうした人々を不幸にしてしまう効果を有している。もちろん、そうした人々の幸福を奪うという犠牲を払ってまで、追求すべき価値のある社会変革も存在することであろう。しかし、客観的な状態の改善のみに着目する視線は、人間の感情の微妙な部分を捉えることができず、背後に泣いてもらっている人々がいることを看過してしまうことになる。社会の正義について考える際、我々はしばしば理想のみを追い求めがちであるが、独善の誹りを免れるためにも、こうした問題の存在を常に念頭に置いておかなければならないのである。




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